アイサワ工業株式会社

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当社のあゆみ


道程

「常に最善を求めてやまない」アイサワの哲学

アイサワ工業の創業は明治45年。
砂利を商っていた初代逢澤寛が岡山市で請負業を興したことに始まります。
やがて逢澤組を創業し、永安橋架橋工事など県の重要工事に参加、信用という財産を積み上げます。

その後、逢澤組は中国土木となり、仕事の範囲を全国へ広げます。
昭和14年には海洲(朝鮮)の製錬所建設工事に参加、玄海灘を渡り難工事を成し遂げます。
昭和41年には建造費を市に代わって立替え、岡山城の再建を果たします。「魂のこもった仕事」で甦った岡山城により、岡山市はその象徴を取り戻しました。

そしてアイサワ工業となった今日、逢澤寛の「常に最善を求めてやまない」という人生哲学は、1世紀を経た今も当社の社員に受け継がれています。

会社の歴史

1912年5月
(明治45年)
逢澤寛が「逢澤組」を創業したのが当社の起源です。建設業界の古く前近代的な体質の改革、向上に心血を注ぎました。
1932年9月
(昭和 7年)
逢澤寛は、大本百松氏(後の大本組)、瀬本唯一氏、藤原兵太郎氏らと資本金50万円をもって中国土木合資会社を設立しました。
1939年7月
(昭和14年)
傍系会社として中国土木株式会社を資本金19万5千円で設立。当社が名実ともに設立されました。
1949年5月
(昭和24年)
中国土木合資会社を吸収合併し、資本金119万5千円の中国土木株式会社となりました。この年に建設業法が制定され最初の大臣登録を受けました。
1965年1月
(昭和40年)
東京支店開設。その後、昭和41年には名古屋・大阪支店を、昭和44年には広島・高松・福岡支店を、昭和50年には仙台支店を開設しました。
1973年8月
(昭和48年)
逢澤潔(現会長)が社長に就任。同年12月にアイサワ工業株式会社に社名変更しました。
1980年1月
(昭和55年)
東京本社・岡山本店制度に組織改編。
1991年12月
(平成3年)
当本社ビルを含めた表町地区再開発により岡山シンフォニービル完成。地域の活性化と文化活動の拠点となる複合施設。岡山本店は同ビルの最上階11・12Fに入居しました。
1997年12月
(平成9年)
ISO9001認証取得。その後、ISO14001(平成12年)を認証取得。
2007年8月
(平成19年)
逢澤寛人が社長に就任。

成功への架け橋となった永安橋

吉井川*1 は岡山県における水害の元凶と評され、西大寺の大水というのは名物といわれていました。大正7年に岡山県が大水害に見舞われ、急遽復旧工事を進める必要がありました。この時、吉井川の永安橋の担当することになったのが河窪技師 *2、工事請負人が逢澤寛でした。当時この橋梁は最新で極めて難しい工事であり、業者としては無名であった逢澤寛に不安を抱いた河窪技師は自分の目で確かめることにしました。この時、逢澤寛はびっくりするような大きな声で「逢澤寛はできん仕事は引き請けない。引き請けた以上は、どんなことがあろうと立派にやり遂げるだけです。」この心意気に感動した河窪技師は無言のうちに手を握り合っていました。
架橋工事は逢澤寛とその指揮に応える部下たちの異常なまでの努力と熱意の傾注によって成功裡に竣工し、近代的な鉄骨の橋梁として姿を現したのです。
逢澤組が手がけた工事は雨風による災害でも破壊を免れると評判になり、入念な工事が揺るぎのない信用を博すこととなります。

写真:流出前の永安橋
流出前の永安橋
写真:近代的な鉄骨構造となった永安橋
近代的な鉄骨構造となった永安橋


*1 岡山県東部を流れる岡山三大河川の一つ。藩政時代から明治にかけて数十回も氾濫、決潰した。
*2 岡山県の土木技師。永安橋の工事以来、逢澤寛とは肝胆相照らす仲となる。その後、高知県へ赴任し、歌で有名な「土佐の高知のはりまや橋」の工事を手がけるとき、わざわざ県外から逢澤寛を呼び施工させた。


海洲(朝鮮)の大製錬所建設工事
写真:玄海灘を渡ったバケット式砂利採取船
玄海灘を渡ったバケット式砂利採取船
昭和14年、中外鉱業(原安三郎社長)の製錬所建設工事を名だたる大手と競り合い落札しました。現地の工事には大量の砂利が必要であり、その輸送手段が最大の難問でした。
そこで逢澤寛は砂利を船で運ぶ代わりに、砂利の採集船の船団を組んで海洲へ渡り現地で砂利を採集するという破天荒な手段を執りました。つまり現地で使う作業施設をそのまま輸送手段として現地へ人間ごと押し渡るという一石二鳥の離れ業です。
玄海灘を渡る逢澤船団は激しい嵐に遭遇しますが、焼玉エンジン*1 の独走力で必死の力を振り絞り、満身創痍ながら全船とも入港しました。殴り込みにも似た気魄が作業期間中を通して発揮され、社運を賭しての工事は大成功となります。
この出来事は「昭和の紀伊国屋文左衛門」という見出しで報道され、中国土木の名を一躍上げることになりました。


*1 構造の簡易さと廉価さにより明治末期から多くの小型漁船・渡船などに搭載された。焼玉エンジン搭載の動力船はリズミカルな音を立てて航行することからポンポン船と呼ばれた。


岡山城の再建に情熱を懸けた逢澤寛
岡山城は烏城と呼ばれ、黒い外壁をもつ三層六階の名城で岡山市の象徴として長らくその偉容を誇ってきました。逢澤寛の家は旭川を距てて岡山城と向かい合っており、豪壮、雄勁な中にも気品をたたえてそびえ立つ姿は大きな心の支えになっていました。
第二次大戦中の昭和20年6月29日、敵機の投下した焼夷弾によって、それは一瞬にして逢澤寛の視界から姿を消してしまいました。逢澤寛が見たのは悪夢より悲しく痛ましい光景だったのです。再建されるときがくるならば、逢澤寛は寛自身の失われた精神の堂宇を再建するために自分を懸けるしかないと誓いました。
20年という歳月が経ち、逢澤寛は再建にかかる費用の大半を財政難の岡山市に代わって立て替え、城の再建工事に参加しました。「岡山城の再建はなにがなんでも俺の手でやりたい」という執念は損得を度外視して手がけられ、昭和41年11月に城は見事に完成されたのである。「魂のこもった仕事」で甦った岡山城により、岡山市はその象徴を取り戻したのであります。
写真:再建なった黒壁の岡山城
再建なった黒壁の岡山城


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